萩で育ち、萩で学ぶ、中高生の皆さんへ。
萩を離れ、東京で活躍する先輩が歩いてきた、人生のストーリーをたどってみませんか?
山陰の小さな町に生まれた私たちは当時、萩での暮らしの「その先」を知る機会は決して多くはありませんでした。それでも、将来を想像し、夢や目標を胸に萩から飛び出す人は、今も昔も絶えず存在しています。
「萩ミライ探訪」は、皆さんよりも先に大人になった私たちからのささやかなギフトです。先輩たちの「人生」というストーリーが、あなたの将来を考えるヒントにつながることを願っています。
Produced by 萩大志館〜萩市出身者でつくる事業創造チーム〜
第4回は、リベルタ株式会社 代表取締役 澤野啓次郎さんに話を伺いました。
澤野さんは、ウェブメディアのコンテンツ制作事業のほか、昨今耳にすることの多いインバウンドビジネスとして、外国人を対象とした旅行サービスを手がけています。
なかでも力を入れているのが、旅行。このサービスがとてもユニークなんです。
澤野さんの仕事は、東京や京都といったメジャーな都市ではなく、田舎が舞台。萩の城下町はもちろんのこと、須佐や江崎、弥富や小川といった観光地化されていない小さな集落までも外国の人が楽しめるように仕立てて販売しています。萩のみならず、熊本の阿蘇、島根の津和野や石見銀山、江津など、日本らしい風景が残り、人と人との温かさを今も感じることができる「知られざる日本」に新しい価値を見いだしているのです。
3,152人泊。
これは、昨年10月の初受注から今年7月までの10か月間に澤野さんの会社をとおして、日本に訪れた外国人観光客が宿泊した日数の総カウント。東京・京都など都市部も含むそうですが、「日々手ごたえを感じています」と澤野さんは笑顔を見せます。
田舎に外国人を呼び込むという未踏の世界に挑む、澤野さん。その行動力を目の当たりにすると、「人って、いくつになっても、どこにいても、思い立った瞬間から行動を起こせば道は拓けるんだ」と、大きな勇気が湧いてきます。
澤野さんは、これまで培ってきたすべての知見を総動員して、いま、何を成そうとしているのでしょう。
須佐中でバンドに夢中。萩高に進学するものの不登校に
―早速ですが、簡単な自己紹介からお願いします。
僕は、1971年生まれ。旧須佐町の出身です。両親ともに中学校の先生。3人兄弟の真ん中として育ちました。同級生52人は小中学校と持ち上がりの環境です。プロレスとお城のプラモデルを組み立てることが好きな普通の子どもでした。
中学生になると、友だちとバンドを組んでベースを弾いていました。今の中学生は知らないと思うけれど、ブライアン・アダムスやa-ha(アーハ)、それからヴァン・ヘイレン、モトリー・クルー、ラットなど、海外には格好良いバンドがたくさんあって、いろいろ聴くうちに洋楽がどんどん好きになりました。
―お城からプロレス、ロックミュージックと振り幅が大きいですね。その後、萩高に進学されていますが、進路はどうやって決めたんですか?
無難な選択をしたに過ぎません。ウチは親の職業柄もあって教育にうるさくて。母も萩高出身だったし、兄も萩高に進んだし、自分も萩高に行ったほうがいいのかな? って密かに感じていたんでしょうね。
―自分のことなのに、まるで他人事じゃないですか。
というのも、当時の僕には自分で自分の道を決める習慣がなかった。だから、親が望んでいるだろう道を選んだのだと思います。もしくは心の底では高校は普通科に進むという無難な道を歩みたかっただけかもしれません。自分の学力は萩高に合格するレベルではなく、入試直前の模擬試験ですら合格圏外だったんです。最後の最後に親から勉強の特訓を受けて、なんとか合格できました。けれども、自分で心底考えて決めたゴールではなかったので、達成感はありませんでした。勉強もそれっきり。中高生の僕が勉強に興味を持つことは、とうてい無理でした。
―じゃあ、高校生活もおもしろくなかったとか?
それが、高校はめちゃくちゃおもしろかったんですよね。たくさんの中学校から人が集まってきているぶん、今まで出会ったことのない種類の人がたくさんいて僕の知的好奇心も大いに刺激してくれました。クラスメイトとは、音楽や映画の話で盛り上がったり、ラグビー部に入部したらクラスとはまた違う友だちができたりと楽しかった。
実質3、4か月しか通っていませんが……。
―そうなんですよね。澤野さんは、萩高を自主退学されたと聞いています。そんなに楽しかったのに、なぜ行かなくなったんです?
一つは、1学期の中間と期末テストの順位が最下位だったんです。もともと勉強に興味はなかったものの、さすがにビリを何度か取ると「自分って、こんなにできないんだ」と思い知らされ、一層やる気を失くしました(笑)。
もう一つの理由が、同級生とのトラブルです。1学期の終わりに「お前、生意気だよな」って言いがかりをつけられ揉めたことがあって。15、6歳って傷つきやすい年頃でしょ。それで学校に行きづらくなってしまったんです。そのまま夏休みに入って須佐の仲間と遊んでいるうちに、そっちのほうが楽しくなっちゃって。2学期以降、足が学校に向かなくなりました。
結果、単位は一つも取れず、出席日数も足りなかったから留年することになったんです。みんなは2年生になるのに、自分だけは1年生のまま。体育のジャージの色も一学年下のオレンジ色に変わってしまう。そうなると2年生に上がった同級生と自分を比べて屈辱を感じるんですよね。新たに同じ学年になった同級生からも「なにこの人?」的な視線を感じました。
それでも、「留年したけれど、なんとか頑張ろう」と、気持ちを鼓舞して学校には行ったんですが、この環境に耐え切れなくなり、学校には完全に行かなくなりました。
上京。大検取得という初めての成功体験
―学校に行っていないと知ったご両親は、さぞ心配されたでしょうね。学校の先生なら、なおさら。
そうですね。せっかく作ってくれた弁当を片手に学校に行くふりをしてパチンコばかりやっていましたからね(笑)。両親は真面目だし、ドロップアウトしたこともないから僕みたいな人間が理解できなかったみたい。かなり悩んでいました。
結局、母親から「あんた、どねえするかね?」って聞かれ、僕は「辞める」と。それでも母親は、いつでも復学できるようにと、退学届けはすぐには出さず、年度末まで籍を残してくれていたようです。
―高校を辞めてからは、何をしていたんですか?
しばらくはプラプラしていました。家に帰るのが嫌で嫌でしようがなかったので、もっぱら須佐の連中と遊んでいました。その後、17歳の時に東京に住む兄の部屋に転がり込みました。でも、目的を持って行ったわけじゃないからすることが無い。しばらく時間を持て余していました。
この頃になると、親はもう何も言いませんでしたが、一言だけ「大検(大学入学資格検定の略。合格した人に大学の入学資格を授ける制度)を取るという選択肢があるよ」って教えてくれました。
僕もヒマだったし、仲間も欲しかったので、大検取得に向け予備校に通いはじめました。だけど、勉強はそっちのけ。歌舞伎町に行ったり、中目黒の友だちのアパートに入り浸ったり、真面目とは程遠い暮らしぶりでした。
―澤野さんのころの大検って、どんな仕組みだったんですか?
僕のときは、11教科あってすべてで60点以上取れれば合格だったと思います。真面目に勉強すれば難しいことはないんだけど、僕は勉強に興味を持てなかったから全部合格するまでに年に1回の試験を3回も受検しました(笑)。
―でも、無事に合格できたんですね。
はい。すべて合格できたのは同級生が大学2年生の時。夏に受検して秋に結果が出たのかな。それで、「いまから3か月勉強したら、4月から大学に通えるかな」って考えたんです。
―じゃあ、翌年の4月からは……
大学生になりました。高校受験のときは自分で決めたとはいえ、親の気持ちを忖度(そんたく)したゴールだったから、達成感は無かった。でも、大検は初めて自分で取ろうと決めて実際に結果が実るという小さな成功体験となりました。頑張れば、こんな自分にもできるんだって初めて気づいた。
そこから自分は一つひとつ人生を積み上げていったって感じですね。
自分が3000分の10になれたのは、「地縁」と「素直さ」があったから
―その後、澤野さんは、音楽出版社のシンコー・ミュージック(現 シンコー・ミュージック・エンタテイメント)、ウォーカープラス(現 KADOKAWA)、ヤフーと誰もが知る企業を渡り歩いています。シンコー・ミュージックは、新卒入社ですよね。狭き門だったと思うのですが。
よく受かったって自分でも思います。当時3,000人以上が受けて、入社できたのは10人くらい。運がよかった。でも、今思えば、二つの縁が僕を導いてくれていました。
一つは、面接官のなかに長門市出身の人がいたこと。もしも同じレベルの人が数人いて、そのなかから誰かを選ぶとなったら、何かしらの理由をつけて選ぶと思うんですよ。このときは、その人が同郷を理由に僕を推してくれたんじゃないのかなと思います。だからなのか、僕が配属された部署には、山口県出身者が3人いたんですよ(笑)。
―(笑)。もう一つの縁も聞かせてください。
バンドをしていた中学生のころ、モトリー・クルーというハードロックバンドに夢中になり、彼らのオフィシャルバイオグラフィーを買ったんです。そしたら、出版元がシンコー・ミュージックで――。面接の場でそれが志望動機だと話したことで、「お前、分かっているな」「お前は俺らと仲間になれそうなヤツだな」と思ってもらえたんだと思います。
マスコミ業界で働きたいというミーハー心ではなく、シンコー・ミュージックがどんな会社なのかをちゃんと理解していることに加え、その職場の人たちと仲良く働けそうかどうかがポイントだったんだと思います。
―両方とも、点と点が繋がるかのような印象を受けます。
そうですね。僕は、好きなことをやり続けているうちに、その点同士がつながって、いずれ線になる、という話にとても共感します。というのも僕自身、「あれとあれって結局つながっていたんだ。運命だったんだ」と思うことが多くあるから。本当に不思議です。
就職のときも、たまたま僕が山口県の生まれで、たまたまモトリー・クルーを好きになって、本を買ったらつくったのが、たまたまシンコー・ミュージックだった。不思議なことに、そうやってどこかでつながるんですね。
そのなかでも地縁は強いと思いますよ。萩市や山口県から離れた土地であれば、なおさら。萩にいるうちは気付かないけれど、一歩外に出れば、いつかどこかでそうした地縁は必ず活きてくる。これは一生を左右するくらい大きな財産だから、故郷には誇りを持ってほしいですね。
あとは、「素直さ」と「正直さ」。それこそ、その人の最大の武器になるし、相手と通じ合える唯一の方法だと思います。自分を偽ったり飾ったりして、その場はうまくいったとしても、普段の自分とは違う姿で居続けるのは辛い。だから、周りに対して素直で正直でいることは大切ですよね。
「花燃ゆ」と世界遺産登録が決定! 萩に盆と正月が一緒に来た!
―その後、ウォーカープラスを経てヤフーに入社されています。ただ、そのヤフーも40過ぎで退職して、いよいよ起業するわけですが、傍から見ると「誰もが知っている大会社を辞めるなんて、もったいない」と感じます。当時、どういう心境だったんですか?
IT業界って、40代で一区切りという暗黙の一線があるんですよ。若手に比べて給料が高い、最先端のテクノロジーや若い感性を活かしたいのに、おじさんたちが会社を支配していたんじゃ、十分にそれが活かせないなど、組織の課題を抱えています。会社としては若い人にどんどん活躍してもらいたいのに、上に人が詰まっていたら、これらは実現できません。
僕が退職した当時も、『アップ・オア・アウト(上に上がれなければ去れ)』的な考え方があり、50歳になった自分が活躍している姿はイメージできませんでした。ちょうどその頃、自分が担当していた海外事業のプロジェクトが撤退を余儀なくされました。
そういう経緯もあり、「これ以上、ここにいても自分の居場所はないな。これ以上吸収できるものもないな。もともと起業しようと思っていたし、会社を辞めるいいタイミングだな。ここで辞めなければズルズルとサラリーマンのまま終わってしまうな。今しかない!」って思いました。
2014年の話ですが、時を同じくして来年の大河ドラマが『花燃ゆ』に、さらには萩の資産が世界遺産に登録されることが決定しました。出身者としては、盆と正月がいっぺんに来たような感覚です。
またとない機会が訪れているのに、それをただ傍観するのか、それとも主体的にそれに関わる人生を作るのか、選択を迫られている気がしました。だったら、と後者を選んで一歩を踏み出そうと、会社を辞めることを決断したんです。
―会社から一人で飛び出すことへの不安はありませんでしたか?
めちゃくちゃ怖かったですよ。まさに清水の舞台から飛び降りる心境です。資金も120万円くらいしかなかったし(笑)。
ただ当時は、起業して45歳までにセミリタイアして悠々自適な生活ができたらいいな、という考えがあったので、起業後に活かせるスキルを身につけようと、いろいろな部署に自ら手を挙げてどんどん異動させてもらい、あらゆる経験をしました。おかげで多くの人脈とスキルを手に入れられましたし、それらが今の仕事にも生きています。
―盆と正月が一緒に来た話に戻るんですが、澤野さんは実際に『花燃ゆ』の仕事を手がけることになります。そこにたどりつくまでのエピソードを聞かせてください。
これも縁なんですよね。主体的に萩に関わることがしたいと思うものの、その術(すべ)がわからなかった。だから、会う人会う人に「ふるさと山口に関わる仕事がしたい」と言い続けました。
するとある日、ヤフーの元同僚から「NHKが大河ドラマのウェブディレクターを探している。条件は郷土愛の強い人で、ウェブディレクションができる人。澤野さんどうですか?」と連絡を受けました。その同僚が僕のことを思い出して紹介してくれたんです。
さっそくNHKの担当者に会いに行き、最終的にご当地サイトのウェブディレクションを任せてもらうことになりました。これが起業後の初受注案件です。このときばかりは、自分をすごいと思いましたね。何よりも念願だった『花燃ゆ』の仕事に主体的に関われることになったんですから。すごく興奮しました。
ここまで中高時代、会社員時代から起業するまでのことを、澤野さんに振り返っていただきました。
「地縁を活かす」「素直さを大切にする」「スキルと人脈を培う」、そして「行動を起こす」。澤野さんから飛び出したキーワードは、環境や年齢問わず大切にしたいことばかりでした。
後半は、現在、澤野さんが最も力を入れる、外国人向け旅行サービスについて伺います。
探訪ナビゲーター 香川妙美
越ケ浜→土原→大井で育つ。中学・高校と音楽にのめりこんだことをきっかけに、東京の専門学校に進学。音楽ビジネスを学ぶ。その後、音楽事務所、自動車関連の会社で働き、2013年からはフリーランスとして独り立ち。現在は、企業のPRのお手伝いやライター業を主な仕事にしつつ、その傍ら大学で学んでいます。萩の好きなスポットは、図書館。
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