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執筆者の写真香川妙美(萩出身ライター)

萩でくすぶるマグマに手を突っ込み、遠慮なくかき混ぜる。 女性経営者の目に映る、萩の未来とは

萩を離れ、東京で活躍する先輩が歩いてきた、人生のストーリーをたどってみませんか? 第5回は、株式会社コスモピア 代表取締役 田子みどりさんに話を伺いました。


 田子さんは、ITで世の中の課題解決に取り組む会社を経営しています。そのサービスは多岐にわたり、企業や役所のシステム運用のヘルプや社員教育のためのマニュアルの作成、科学技術に関連する展示施設の企画や運営、ウェブサイトの制作、本の出版など、さまざまです。


 また、個人の活動にも精力的です。萩ふるさと大使をはじめ、一般社団法人東京ニュービジネス協議会 特別理事、一般社団法人女性活躍委員会 理事、女性創業応援やまぐち株式会社 取締役など多くの要職を兼務。田子さんのSNSを見ていると、ほとんど東京にいないのでは、と思うほど。そんななか、今年8月からは熱中小学校萩明倫館の教頭に就任。「現在は、月2度のペースで県内や萩に通っています」と話します。


 そんな田子さんに、子ども時代のこと、起業した経緯、そして萩とのつながりまでたっぷり語っていただきました。



男女の区別に違和感。対等社会を目指し、東京へ


―田子さんは、明倫小→萩第一中(現:萩東中)→萩高と進んだそうですね。どんな子どもだったんですか?


 父は市役所勤め、母は小学校の教員という両親のもと育ちました。共働きだったので、朝は土原の自宅から学校に行きますが、放課後は祖母の住む堀内に帰っていました。だから、子どものころは、田中大将(注:素水園)や菊ヶ浜、春日神社が遊び場。とにかく走り回っていたので、いつもひざが擦りむいていました。


 中学では陸上部に入りました。わたしの代は結構強かったんですよ。春の県大会で男女総合入賞しました。高校でも陸上部に入りましたが、顧問に種目変更をするように言われたのをきっかけに辞めてしまいました。



陸上部では、短距離を走っていた。中国大会にも出場。部長も務めた。 会場は、山口県営陸上競技場(現:山口マツダ西京きずなスタジアム)

―その後、東京の早稲田大学に進学され、大学卒業と同時に起業されています。いまでこそ女性起業家も多くいますが、この時代、しかも20代前半で起業というのは非常に珍しいことだと思うのですが、きっかけは何だったのでしょうか?


 思い返すと、経営者になるレールは、昔から自分で敷いていたのかもしれません。


 わたしは子どものころから、男女を区別した扱いに疑問を持っていたんです。たとえば、わたしの時代は学級委員を男女一人ずつ選ぶことになっていましたが、男子の学級委員は司会進行、女子の学級委員は板書という役割が当然だったんですよね。生徒会の活動、部活動の部長もしかりです。成績は性別関係なく評価されるのに、それ以外のことは男女の役割が暗黙の了解で決まっているかのような。この印象は、高校に進んでからも変わりませんでした。


 そのうち、進路を考える時期が訪れます。萩は進学を考えるとやはり市外に出ていく選択肢のほうが多いですよね。このときに「都会のほうが男女対等の考えが進んでいるんじゃないか」と考え、東京の大学に進むことに。将来はマスコミや出版社で働いて、いまでいうバリキャリを目指そうと思っていました。



―男女差の無い環境で学び、働こうと考えたんですね。実際はどうでした?


 それが、わたしが大学生のときは、 女子大生ブーム(※)の真っ盛りで、『女子大生を楽しまなきゃ損』という風潮だったんですよ。でも、この流れに乗ることは、女性としてキレイに華やかに振る舞うことを肯定することと同じ。そういうのに乗っかったり、うまく乗れなかったり、いろいろ試行錯誤していました。


 また、入部したサークルでは、早慶戦の時に男子は場所取りで泊まり込み担当、女子は手作り弁当担当と言われて。「夫でも恋人でもない人になぜ作らなければいけないの」と卒倒しそうになりました。


 ※現役大学生の女性タレントの誕生、この年代をターゲットにしたファッション誌の相次ぐ発刊から、女子大学生がブランド化されていく現象。



田子さんは、女子大生ブーム最盛況の時代を学生として過ごした

―すごい時代だったんですね。


 ショックは就職活動の時期にも起こりました。このころはまだインターネットの無い時代なので、就活は就職仲介会社から届く分厚い情報誌を基に行うのが主流だったんです。ただ、この雑誌が男子学生には山のように届くのに、女子学生にはまったく届かなくって。男女雇用機会均等法が施行される3年前の話です。とにかく社会に女子を採用する機運のない時代でしたね。当時、いろいろな企業の人事(採用を担当する役目)の人に話を聞く機会がありましたが、口を揃えて「女子には期待していない」と言っていました。


 東京は男性と対等の道が開けているというのは、まさに幻想でした。



「このビジネスは、これから伸びる」

女子大生チームを率いて起業を決意


―就職活動もままならない状態だったとうかがえますが、そこから起業にはどうつながるのでしょう?


 大学2年生のころに企画事務所でアルバイトを始めたんです。そこは、企業の研修カリキュラムやキャンペーンなど、いろいろなことを手がけていました。各大学から学生が集まっていることもあって、大学3年生の終わりに女子学生を集めたチームを立ち上げることになりました。わたしは一番年長ということもあり、リーダーを務めることになりました。


 この体制で初めて受注したのが、経済団体の偉い人が集まるフォーラムの仕事です。プログラムの一つを企画してほしいと言われ、サイエンスショーを行いました。黒電話が主流の情報通信が今後どのように変化していくのかを女子大生の視点で紹介するという内容だったんですが、これがとても好評で。参加した大企業の会長さん達からは、「これからの世の中に必要な視点だね。この活動はぜひ続けなさい」とたくさん激励を受けました。


 でも、さっきの女子社員には期待していないっていう話のとおり、皆さん自社で取り組むつもりはなかったんですよ。ただ、「女性の視点は今後必要になるから、そういう組織が外にあると企業としては重宝する」と言われました。その時はそんなものかなくらいに思っていたんですが、その後も大手企業のキャンペーンやイベントの仕事を続けて受注し、大学卒業のころにはある程度の形が出来上がっていました。


 このビジネスは求められているという肌感覚と、就職活動が思うようにいかない歯がゆさから、気持ちは次第に起業へと向かいました。結果、大学卒業の翌月に会社を設立し、いまに至ります。



―冒頭でも触れましたが、当時、女性が大学卒業と同時に起業するのは珍しいことですよね。注目を集めたのでは?


 そうですね。しかも、20代前半の女性が科学や技術といった小難しいものを扱っているので、そのギャップもおもしろがられました。マスコミの取材も多く受けましたよ。その記事を見た大企業の社長さんから、直接電話をもらうことも1度や2度ではありませんでした。


 当時は大企業も太っ腹で、トップが直接若い起業家を引き上げてくれる動きがあったんです。おかげで、わたしたちも早い時期から大手企業と取引をしていました。



―時代を感じさせますね。田子さんの存在は、「自分も社会で活躍したい」と願う女性にとって、期待の星だったと思うんですが。


 求人票を出すと、「良い大学を出て就職したのに、選択肢は寿退社かお局の二択しかない」と嘆いていた優秀な女性が、どんどん集まってくれたのは心強かったですね。いまでこそ、男性社員も働いていますが、しばらくは女性だけの職場環境でした。



「出身者が意見を言わないで、誰が意見を言うんですか!」

傍観者だった自分が、萩市とつながり直した


―いまでこそ、山口県や萩市のプロジェクトに多く携わる田子さんですが、昔は“過去は顧みず”だったと聞きます。積極的に関わるようになったのは、何かきっかけがあったのでしょうか。


 それまでは子育てや会社経営など、自分のことで手いっぱい。母も二人の兄も東京で暮らしているので、萩には年に一度帰るかどうかという程度でした。また、東京で萩高の同級生と話していても「ふるさとを出て東京で好き勝手暮らしている自分たちには、萩のことをとやかく言う権利はない」と、誰もが萩に対して口を挟むことを遠慮しているきらいがありましたね。わたしも、「そうかあ、そうだよなあ」って同調していました。


 転機になったのはSNSの台頭です。FacebookやTwitterを介して地元の人と自由に情報のやり取りを交わすなか新たな人間関係が生まれ、たくさんの情報に触れられるようになりました。そんななか、当時、萩支局に勤める新聞記者さんとつながり、交流が始まりました。


 ある日、その人が萩の課題をSNSに投稿していたのですが、それに対し、わたしは『意見はあるけれど、萩を離れて長い自分は言う立場にはない』とコメントしたんです。すると、彼は、『出身者が意見を言わないで、いったい他の誰が言えるんですか』って返してきたんですよ。これが、心に深くグサッと刺さったんですねえ。無関心は無責任と気づかされた瞬間でした。


 これをきっかけに、萩に対して自分ができることを探すようになりました。最初の行動は、萩市出身ですって話すことから。すると、周りが思いのほか反応するんですよ。「修学旅行で行ったことがある」「『坂の上の雲』は大好きな本だ」という具合に。それまでも萩が歴史や観光地の一つとして知られているくらいに認識してはいたものの、萩を身近に感じてくれる人がこれほど多いことに驚きました。


 そのうち、萩に行ってみたいという声が経営者仲間からあがるようになり、経営者の視点で萩を回るツアーを企画したりもしました。この時は、萩大志館代表の井関さんをはじめ、市役所の方に相談に乗ってもらいましたね。当日は、明倫小学校の朗唱も見学しましたよ。それを見て、井関さんと二人で号泣してね(笑)。そんな活動を足掛かりにしながら、徐々に萩市と連携を取るようになり、いまに至ります。



―熱中小学校もそういった流れを汲んでいるんですか。


 熱中小学校で家庭科を担当する料理研究家の方と10年来の友人で、熱中小学校のことを以前からよく聞いていたんです。そこに萩でも立ち上げる話を耳にし、構想の段階から関わるようになりました。そんな経緯から教頭を務めることになりましたが、これには運命を感じています。わたしが明倫小学校の出身というのもありますが、今は亡き母が小学校の教員として初めて赴任したのも明倫小学校だったんです。その母は、娘のわたしが教員になって萩に戻ってくるのを願っていたのですが、それを叶えてあげられなかったので、このたび熱中小学校萩明倫館の運営に携わる形で母校に帰ってこられたことに感動しています。



田子さんのオフィスには、萩ふるさと大使の委嘱状が飾られてある


新しい情報に目を向け、自分を常に進化させる気持ちを大切にしてほしい


―萩で育ったという田子さんが、今度は萩の未来を育てていくんですね。話を伺うわたしのほうも、じんとします。改めて、萩に対するいまの気持ちはいかがですか? 傍観者から介入者として積極的に関わるなかで感じていることを聞かせてください。


 熱中小学校萩明倫館の校長を引き受けてくださった、鈴木寛先生は山口県庁に出向していたことがあり、萩にも頻繁に足を運んでいたそうです。その時に松陰先生の教育に非常に感銘を受けられたようで、「萩明倫館の校長に任命されたことをとても誇らしく思う。私の教育の原点は松下村塾にあります」とおっしゃっていました。また、経営者仲間にも会社の研修を萩で行う人や自分を見つめ直すときは萩を訪れるという人がいます。


 このように萩に影響を受ける人は多く、そういう話を聞くたび、自分は良いところに生まれ育ったと感じますし、いろいろなチャンスを与えてくれたのも萩なんだなあ、と感じます。


 年月が巡り、いままた萩でいろいろな役目をもらうことに対しては、人生の次のステップを踏むタイミングに差しかかっていると考えるようになりましたね。自分の次の扉を開いてもらえているような気がしてワクワクします。このワクワク感をたくさん人と共有したいですね。


 萩って静かな街だからか、帰るたびにどこか沈殿している気がするんです。普段は上澄みだけが見えているかのような。でも、底には熱くてドロドロしたマグマのようなものがうごめいているので、萩に帰ったときは、そのドロドロに手を突っ込んでかき回すようにしています。そこは、出身者として遠慮なくやっていこうと思っています。



―最後に萩の子どもたちにメッセージをお願いします。


 いまは萩や山口県のこと、もっといえば東京や大阪など日本の大都会に視点を合わせている時代ではありません。わたしたちの経済も世界を軸に回っていますから、未来を考えるときにはグローバルな視点に立つ必要を感じています。わたしのころは、良い大学、良い会社に入ることが一番と言われていましたが、いまはまったく違います。自由に伸び伸びと世界を創造する力が必要です。


 では、この“世界を創造する”とはどういうことでしょう。一つは、ITやAIなど先端技術です。


 最近萩には、東京など市外のさまざまな会社のサテライトオフィスができつつあり、皆さんにもいろいろな機会を作ってくれています。こういうのって本当にチャンスなんです。ですから、まずはチャンスを外さないことが大切です。それが自分に向くのか向かないのかは、やってみなきゃわからない。向かないと思えば他を探せばよいだけです。一番良くないのが、昔のわたしのように無関心でいることです。だから、まずは関心を持つ。関心を持ったら関わる。惹(ひ)かれるものがあるなら、深く介入する。次は主体的に関与してみる。そんな好奇心を持ち続けてほしいと思っています。


 わたし、今年の萩夏祭りでお神輿を担いだんですよ。直前まで、「この歳になって神輿を担ぐなんてどうかしてる」って重い気持ちだったんですけれど、担いだ後は「どうしていままでお祭りを見る側にいたんだろう。人生損したなあ」って思うくらい気持ちが変わりました(笑)。めちゃくちゃ楽しかったんです。ですから、どんなことでもやってみるに尽きます。


 いまある知識の中で将来を予測しても社会はどんどん変わっていく。だからこそ、新しい情報に目を向け、自分を常に進化させる気持ちを持ってください。



―田子さんご自身が自分で環境をつかみとってこられました。その実感からくるものを多くお持ちだと思います。


 子どものころ、男女差に違和感を持ったこともそうですが、課題を見つけたり、問題意識を持ったりすることは、人生を切り開くうえで一つの突破口になると思います。つまるところ、わたしは課題に挑戦するのが好きなんですよ。これは、松陰先生の訓えの影響が大きいですね。


 熱中小学校は、大学生以下は無料で中学生から参加できます。いろいろな方が講師として来てくださる予定なので、ぜひ受講してもらえたらと思います。熱中小学校って現在各地に15校あり、生徒は800人くらいいるんです。アメリカ・シアトルにも学校があるんですよ。生徒になればどこの学校の授業も受けられます。


 松陰先生が30年という短い人生の中でいろいろな場所を訪れ、多くの人と交流したように、皆さんにも熱中小学校の仕組みを使っていろいろなところを旅しながらいろいろな人と出会い、学びを得てもらえるとうれしいです。さらにITを使えば、萩にいながらもそんな体験ができるはずです。そういう機会を萩のなかにこれからもっともっと増やせるように、わたしも頑張っていきます。



株式会社コスモピア


【萩大志館】萩市出身者でつくる事業創造チーム


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